シジュウカラ日誌

トルコのアレヴィーについて研究する大学院生のブログです。文化人類学を専攻しています。研究のこと、トルコのことなど好きなことについて楽しく書きます。

初めての聖地訪問を振り返って(後編)

前編の記事では、アレヴィーの聖地ハジュベクタシュへ行った時、ある違和感を感じるに至った経緯について振り返ってみた。

初めての聖地訪問を振り返って(前編) - シジュウカラ日誌

 

2015年3月、僕は卒業論文で扱おうとしていたアレヴィーの人々が聖地とみなすハジュベクタシュに初めて訪れた。聖地と言われるくらいなのだから、さぞかし熱いアレヴィーの信仰・実践が見られるのだろうと期待していた。

しかし実際に行ってみると、人々の意外にも冷めた姿勢にいささか拍子抜けしたところがある。当時は「ふーんそんなもんか」という感じで取り立てて問題視しなかったのだが、先週読んでいた本で少しばかり謎が解けたような気分になったのだ。

今回はやや冗長になってしまったが、ここまで見に来ていただいたご縁で少しばかりお付き合い願いたい。 

 

何度も言及している「先週読んでいた本」というのは『ハジュ・ベクタシュ・ヴェリの子孫たち:「道」の導師、ウルソイ家』というイレティシム出版から2014年に出た本だ*1。これがどういう本なのかを話す前に、少しだけ背景知識を書いておく必要があるだろう。その後やっと、今回のテーマであるこの「ウルソイ家(チェレビー家)」について触れることができる。

 

そもそも「ハジュベクタシュ」という町の名前は、13世紀にこの地へ住み着いたハジュ・ベクタシュ・ヴェリというイスラム教の聖者に由来している。彼が来る前はスルジャ・カラホユックという名で呼ばれていたそうだ。

非常にざっくり説明すると、ハジュ・ベクタシュ・ヴェリはアレヴィーおよびベクタシーの人々から絶大な崇敬を集める聖者だ。彼らが生まれながらにして属しているオジャクという系譜の多くは、さかのぼればハジュ・ベクタシュ・ヴェリに行きつくという。さらにオスマン帝国の軍事力を支えていたイェニチェリ軍団の母体は、ハジュ・ベクタシュ・ヴェリを祖とあおぐベクタシー教団だった。

このように大きな意味合いを持つハジュ・ベクタシュ・ヴェリは、現イラン北東部のニーシャープールで生まれ、アフメット・イェセヴィー系の教団で修行したのち、13世紀後半にアナトリアに定住した。彼はその過程でセルジューク朝に対する反乱にも参加している。

 

彼の人生はたくさんの伝説で彩られている。彼の師匠ロクマン・ペレンデは、ハジュ・ベクタシュに「この杖の落ちた場所を探し、そこで教えを広めよ」と命じ、手に持っていた杖を高く遠くに放り投げた。その杖が落ちた先こそスルジャ・カラホユック、すなわち現在のハジュベクタシュだ。彼は鳩に姿を変えてアナトリアへと飛び、杖の場所を探し当てた。

f:id:immersion7015:20180324192253j:plain

ハジュ・ベクタシュ・ヴェリが降り立ったとされる丘。

スルジャ・カラホユックの丘に降り立ったハジュ・ベクタシュは、村の人々に水と少しばかりの食べ物を求めたが、人々は不審に思い取り合わなかった。ところがカドゥンジュク・アナ*2と呼ばれる一人の女性は彼をあわれに思い、家の壺にあった食べ物をかき集めて彼に分け与える。

彼女が家に帰ると、底をついていたはずの壺に、なんとあふれんばかりの穀物が入っているではないか。それを見て驚いた彼女は「母さん!いっぱいになってる!(「アナ!ドル!」)」と叫んだ。僕に語ってくれた人によれば、これがアナトリア(Anadolu)という言葉の語源だという言い伝えがあるそうだ。

カドゥンジュク・アナはその後、ハジュ・ベクタシュの最初の弟子の一人となり、彼の身の回りの世話をしながら最期まで付き従った。

カドゥンジュク・アナは清貧で知られ、貧しい人々に自分の持ち物をみな差し出したという。そして最後には自分が着ていた衣まで施し、すべてを手放してしまう。ちょうどその日、瞑想のためにハジュ・ベクタシュが彼女を家を訪ねてきた。裸であることを恥じたカドゥンジュクは、かまどの中に身を隠す。

自らのすべてを人々に捧げ、自らを滅したカドゥンジュク・アナを心の目で見たハジュ・ベクタシュは、「あなたの奉仕は成就した。もう神の御許へ行くことができる」と告げた。カドゥンジュクはその時、かまどの中で「お隠れ」になり、姿を消した。

f:id:immersion7015:20180324195552j:plain

カドゥンジュク・アナの家にある壁。ハジュ・ベクタシュが瞑想中、地震に見舞われ家が崩れそうになるが、彼が手をついて壁が崩れるのを止めた場所が今も残っている。茶色く塗られた箇所がそれで、大きなくぼみとなっている。

f:id:immersion7015:20180324222120j:plain

カドゥンジュク・アナが姿を消したかまど

 実をいうと本題はここからである。ハジュ・ベクタシュは生涯独身を貫いたが、その後彼の子孫を名乗る人々が現れる。後代ハジュ・ベクタシュの生涯について記した書物によると、「カドゥンジュク・アナにはハジュ・ベクタシュが体を清めた後の水を飲む習慣があった(!)。ある日、その水にハジュ・ベクタシュの鼻血が混じっており、それを飲んだカドゥンジュク・アナは子を授かった」とされている。

「そんなばかな!」というツッコミが聞こえてきそうだが、聖なる血筋を重視するアレヴィーの人々は大真面目であり、僕も真面目である。これがチェレビー家(現在のウルソイ家)と呼ばれる、ハジュ・ベクタシュの子孫であるとされる一族の始まりだとされる。

 ハジュ・ベクタシュの死後に形成されたベクタシー教団は、スルジャ・カラホユックに修道場を建てる。ハジュ・ベクタシュの子孫であるチェレビー家は、修道場をワクフとして管理する権利を世襲で受け継いだ。さらに、16世紀になって独自の儀礼を発展させて分離したババガン派(Babagan Kolu)はバルカン半島を拠点にイェニチェリ軍団の母体となる*3が、新たにババ等の称号を授与される場合は必ずハジュベクタシュの修道場に参詣し、チェレビー家の代表であるミュルシドに認可を受けた。

チェレビー家はババガン派のベクタシー教団の上に立つばかりではない。様々な地方に点在するアレヴィー諸集団も、家系としてのチェレビー家(ハジュ・ベクタシュ・オジャク)に帰属を表明し、指導者デデたちが認可を更新しに毎年訪れる。

 この「帰属を表明する(ikrar vermek)」ことを通じ、アレヴィー諸集団はオジャクという社会構造を形成する。ハジュ・ベクタシュに忠誠を誓う誰々がオジャクを形成し、そのオジャク出身のデデにまた別の集団が帰属し、そのまた下に、、といった具合でいくつも階層構造が連なっているのだ。

要するに、ハジュ・ベクタシュの子孫であるところのチェレビー家は、アレヴィーの指導者デデたちをまとめる存在でもある。なお、こうしたオジャクに属するアレヴィー集団のことを「ベクタシー」と呼ぶことがあり、彼らを術語ではチェレビー派(Çelebi Kolu、ないしデデガン派Dedegan Kolu)と呼ぶ。

 

チェレビー家は共和国建国後、ウルソイという苗字を名乗るようになる。これはケマル・アタテュルクがチェレビーやエフェンディといった称号を禁止したためだ。伝統的にウルソイ家の人々は修道場に隣接した家屋に住んでいたが、1950年代以降はアンカラなど近郊の都市部に移住し、冬の間はほとんど空き家の状態だ。夏になると彼らと会うために全国からアレヴィーの人々がやってくるため、ウルソイ家の人々もハジュベクタシュ町に戻ってきて、客人を迎える準備をする。前編の記事でBさんが「デデたちは夏にしか戻ってこない」というのはこのことを指していると思われる*4

 

『ハジュ・ベクタシュ・ヴェリの子孫たち』は、アレヴィー研究書の中では珍しく長期のフィールドワークに基づくエスノグラフィーだが、この中で興味深かったのがハジュベクタシュ町の一般住民とウルソイ家の間にある奇妙な距離だ。著者のメラル・サルマン・ユクムシュは両親がハジュベクタシュ町出身で、彼女自身は長らくアンカラ在住であった。彼女は研究者としての自分を「半ホームの研究者(yarı içeriden araştırmacı)」と位置付けたうえで、序章の第2節に当たる「すでに開かれている扉をたたくこと」で次のように述べている。

ハジュ・ベクタシュ・ヴェリの記念追悼祭が開かれる8月には、ハジュ・ベクタシュ・ヴェリの子孫とされているエフェンディたち*5を訪ねてくるアレヴィー・ベクタシーの人々で溢れかえる。しかしながら、トルコ全土からやってくる訪問者の中に、ハジュベクタシュ町の町民を見ることはほとんどない。家を訪ねてくる人々はあまねく迎え入れられているにも拘わらず、町民は長らく彼らを参詣していない。町民はウルソイ家の聖なる権威を長年認めてこなかったからだ[Yıkmış 2014:31]。

 ハジュベクタシュにルーツを持つ彼女に対し、あるウルソイ家の女性は「ハジュベクタシュの町民が私たちの家族について研究するなんて思わなかったわよ」と語っている[Yıkmış 2014:37]。ここからも、町民と家族の間の心理的距離が相当なものであることがわかる。

1925年に修道場が閉鎖され、それまで公式に認められていたウルソイ家の権威は非公式なものとなった。共和国の歴史の中で次第にハジュベクタシュ町における彼らの位置づけは変化し、次第に一族と町民の間には心理的距離が生まれた。宗教的な実践であったウルソイ家への奉仕は金銭的な関係性へと変わり、町の若者たちを中心に共産主義が跋扈した1960年・70年代には「ウルソイ家の連中は宗教を利用して人々を搾取している」という非難を浴びるに至った[Yıkmış 2014:120]。

また、1964年から毎年8月にハジュ・ベクタシュ記念追悼祭が開催されるようになると、ウルソイ家の人々はトルコ全土からアレヴィーの人々を客人として迎えいれるようになった。これが町民には「膨大な数の人々を受け入れて経済的な利益を得ている」と映り、新たな反感を買うこととなったらしい[Yıkmış 2014:123]。このことについてウルソイ家の女性が著者に語っている。

あなたほら、こういうことよ。うちにお客さんが来るとハジュベクタシュ町の若者は、私たちが溢れんばかりの大金を稼いでいると思っているわけ。でも全然そんなことではないのよ。水道代、電気代、人が増えれば薪代も増える。全部持ってっちゃうんだから。今はこういう人たちもいるのよ、昔と違って。みんな私たちが金持ちだと思い込んでる。

そこに5、6人の列ができた日もあったわよ、ハジュベクタシュ町の若い連中がね。それで乗合バスの上に薪をのっけたりなんかして。私ちゃんと言ったわよ。でも彼らは笑うばっかり。好きなだけ言えばいいのよ、私たちはそもそも言い返したりしないから。誰にも悪いことはしない。(...)あなたも聞いたでしょ、私らは人を搾取してるんだって。来てその目で見てやればいいじゃない、その搾取とやらを。[Yıkmış 2014:124, ウルソイ家の女性、1928年生まれ]

 

 僕が3年前に垣間見たのは、ハジュベクタシュ町の住民とウルソイ家(とそれに従うアレヴィーのデデたち)の間にある、こうした心理的な隔たりだったのだろう。自分の身体で感じた違和感を、本を通じてこのように解き明かすことができることが人類学的思考法の一つの面白さなんだと思う。

今回は書く余裕がなかったが、上のように書いたからといってウルソイ家が宗教的・社会的な影響力を失ったわけでは全くない。むしろ1920年代にハジュベクタシュ町の外部(主にトカット県)に転出した一部のウルソイ家が、そこで地元のアレヴィー住民と深い関係と取り結んだということもあり、アレヴィーとウルソイ家の間の関係性はより深い考察が可能な分野なのだ。

f:id:immersion7015:20180325180705j:plain

ハジュ・ベクタシュ・ヴェリが降り立った丘から望むハジュベクタシュ町



*1:Yıkmış, Meral Salman 2014. Hacı Bektaş Veli'nin Evlatları: "Yol"un Mürşitleri: Ulusoy Ailesi, İstanbul: İletişim.

*2:「カドゥンジュク・アナ」とはあだ名であり、本当の名はファトマであると信じられている。

*3:一般に「ベクタシー教団」として知られているものはこのババガン派で、アレヴィーからするとむしろ傍系にあたる。

*4:ただし「デデ」が一般のデデを指しているのか、ウルソイ家を指しているのかは曖昧だ。

*5:ウルソイ家の男性のこと。